レシムノに憧れて

雑記以外の何物でもないです。趣味はエコとギリシャです。

しなければいけないことがない

術後です。
昨夜はICUで一晩過ごしました。先日、プレピ(しなければ、という意味のギリシャ語)に追われずのんびりしたい、と書きましたが、それの究極版でした。

生きてるだけでいい。

それだけでした。

どっれだけ自由で上げ膳据え膳でなーんにもしなくていいとしても、トイレは自分でいかないといけないですよね。昨日はそれすらしなくてよかった。ずっとあのベッドから何時間も何時間も動かずにただ寝ていました。
鼻からもお腹からも背中にも、尿道からもその他点滴や心電図、血圧バンド。いろんなものがついていましたが、わたしがしなきゃいけないことはなかったです。息くらい。

あ、一度だけ傷の痛みがひどくなってナースコールしました。自発行動はそれだけでした。
でも、その後ナースコールのボタンがなんかコードに紛れて一瞬どこかにいってしまったときは、ちょっと焦りました。これがなかったはわたし本当になんかあったらやばいって!と。

翌日朝になって、診察の後色んなものがズルズルと外されて、点滴を除く最後の管、尿道の管を外してもらったときは、やはり嬉しかったです。これで自力でトイレに行かなきゃいけないってことですが、やっぱりホッとしました。

術後、眠りの麻酔からは覚めたのに、まだ身体が動かない時間がありました。まばたきはできるし顔も動かせるけどうまく話せない。身体も動かない。
そのときは体験として捉えていたので密かに面白がっていましたが、身体が動かない、トイレも頼らざるをえない、うまく意思を伝えられない、それが日常の場合…とちらっと考えました。なんとなく怖くなり、考えるのをやめてしまいました。
歳をとってそうなっていくかもしれない、もっと早くに事故でそうなるかもしれない、しかも日常になると病院で看護師さんに助けてもらうでもなく、家族か…と今想像します。




時間が湯水のような今日

さくっと予防的な摘出のため、入院しました。
いつも、時間がほしい、一人になって、プレピ(ギリシャ語です。英語で言うと、マスト。しなければならない。)から完全に解放されてゆっくりしてみたい…と漠然と夢見ていましたが、やってきました。
その日が。
でも本日限定です。明日は手術なので…、時間があっても苦痛が待ってることでしょう。今日だけはなーんのしばりもなく苦痛もなく、堂々とベッドでゴロゴロ本を読んでいます。

そんな日、書きたいことを少し書いてみようかと思います。

突然の自伝!!

我が家、今の我が家でなく、実家です。我が家は、今思えば誰かの助けが必要な家でした。
内気な母と社交的に見えてコミュニケーション下手な父。父母それぞれの親は社交的で経済的にも裕福なのですが、本人達は世間の常識とはかけ離れた世界観で生きています。
私が子供の頃から、両親は友達や外の世界との繋がりはほぼゼロでした。
そしてその閉ざされた家庭は、荒れていました。部屋は散らかり放題、猫を飼えばノミ屋敷、子供達も前髪が長かったりのボサボサヘアで、服も汚れていました。歯も毎日磨く習慣もなくお風呂もたまにしか入りませんでした。
また、子供も多く、経済的にはかなり貧窮していました。電話を筆頭に、ライフラインが止まることは何度もありました。
肝心の夫婦仲は最悪で、閉ざされた夫婦の罵り合いは、とても子供じみた、救いようのないものでした。
私たちはそれを毎日毎日目にして育ちました。

毎日とても辛かったです。本当に嫌でした。特に、幼い3歳くらいの子供が二人の争いをみてキョトンとしてたり、それが段々慣れて、それをみながらニコニコしてたりするようになりました。それが何より胸にぐうーっと突き刺さり、学校でもいつでも突き刺さったままで毎日を送っていました。
明らかに不潔、手をかけてもらえてない、なんだか情緒不安定。家庭訪問や三者面談ではモジモジしてまともに先生と話せない母親。不登校になっていく妹。怒鳴り声が近所中に響き渡る家。

私たちの心の救いだった猫も近所のお屋敷の人から庭に糞をすると度々クレームを申し立てられ、それでも母はなにもできず、毒を盛られ、痙攣してしんでいく姿を母と二人で呆然と見てたこともあります。結局大好きだった残った猫も、子猫を産んで子供達が喜んでいた直後、父がまとめてどこかに捨ててきてしまいました。

私たちは、なにも解決できず、迷惑ばかりかけるので、疎まれていました。

今思えば、誰か、誰か助けて欲しかった。

でもそのときは、必死で家のこの変なことを隠していました。
身だしなみ悪く、暗く生意気な私は、不潔で眉をひそめられることはあっても、心配してくれる人はいませんでした。


嘘です。一人だけいました。

隣に住んでいた奥さんです。
一番近くで、父と母の怒鳴り声、妹の泣き声、食器の割れる音…それを聞いていた奥さん。
私が一番辛く感じていた下の幼い妹を、きれいな整えられた清潔な家にいつでも招き、手作りのおやつを出し、嬉しそうにしている可愛い姿を写真に撮って渡してくれたり。大き過ぎて無邪気に遊びに行けない私たちのためには、クリスマスには手作りの大きなデコレーションケーキ、たまにピロシキを作ってくれたり、クッキーを焼いてくれたり、他人とうまく話せない母にの心にも寄り添い、あのころの私たちの、大袈裟でなく一筋の光でした。

弱々しく細い、年をとっていた奥さん。でも、奥さんが隣にいてくれることは、私たちにとって心のギリギリの所をつないでくれていました。
奥さんがバイクで買い物から帰ってきて、ただいまーと自宅に戻る声を聞くと、私たちはほっとしたものです。

あのころ、奥さんがいなかったら。

あのころ、奥さんがいなかったら。

私たちは今必死で社会でへまをしないように、よく知らない、教わらなかった、身につかなかった社交を必死で調べて子育てをしています。
あのころの父と母はやはり許せないけど、切り離して、今は清潔に、今の我が家を幸せに楽しく笑って暮らしています。

微妙なんです。私は、両親がそろってて、かなり貧しかったけど、ただ、だらしないだけだったのか。人には言えない貧しさ、不潔さ、両親のとことん内向的な醜い争いの中育ちました。
難しい。カミングアウトとかそういう類の事実でもなく、大きな別離も負債もないけれど、中途半端に不幸ってことになるのかな。

でも相当辛かった。その証拠に、私はその家が荒れてきた頃、12歳くらいの頃からオネショが始まりました。高校卒業して家を出るまで治りませんでした。異常ですよね。なんとか対面はごまかしていても、心はバランスがガタガタだったんです。それについても、気づいていながら親は放置てましたから、乾かしてない布団で寝続け、私は相当臭っていたろうと思います。

とめどなく溢れる想いです。

今は、親に対してなにも恨みもない、期待もない、元気で自分たちらしく生きて欲しい。親にはそれだけです。孫も大事にしてくれています。

けれども、私たちの育ち、子供時代は、変わることはなく、あれは私たちがずっと抱えていくものなのです。そして、まだあの頃と戦いを強いられてる子もいて、なんとか、なんとか!と手をぐっと握ってまだまだ見守っています。

私はギリシャに救われて大人になりましたから、私は大丈夫。

奥さん、奥さん、あのころの汚かった私たちは子供みんな、何十年たっても、奥さんの優しさはいつ思い出しても心をジーンと溶かし、動けなくなるんです。

しもやけ怖くない

もちろん、大阪時代から毎年なるようになってしまった霜焼け、これは根本的に取り組まないといけないことはわかっているのですが、とにかくできしまったものだって今すぐどうにかしないといけません。

思い起こせば、出産後から霜焼け越冬が始まったような気がします。
そこから毎年毎年、職場がいつも一階で底冷えがひどかったせいもありますが、一年も飛ばすことなく毎年霜焼けです。

感覚がないときはやばいぞーやばいぞーとは思いつつも苦痛はないので別にいいのですが、15時とか16時とか、血行が良くなる時間帯なのか猛烈に痒くなります。

最初の年はあまりにひどくてひどくて、我慢した挙句ちょうど娘の皮膚科の受診があったので便乗してみてもらい、ステロイド系の塗り薬をもらいました。
するとすぐによくなったのを覚えています。

そのときはまだアロマに出会ってなかったんですね。

今年は、ふふふ!
冬が寒い土地の一年目、体質は改善してないので(そこはまたおいおい…)案の定今年もちゃんと霜焼け罹患しました。

そして今年は、初めてアロマの力を借りてみました。
アルガンクリームにラベンダーを混ぜて紫色の患部に塗ってみたところ。

すごいです。あのとき、皮膚科で効いた!と感動したのと同じくらいあっという間に治りました。しぼんでます。痒くなりません。即効性すごいです。
しかも、天然の成分のみで。一緒に子供にも塗ってるくらいに安全なもので。

しつこいけれど体質改善はしてないから、治ってもまた寒い日なんかはうっすら紫になっちゃうのですが、悪化はせず、いつも10までいっちゃうところ、2くらいのとこで0に引き返せてます。つまり痒いとか痛いとかいうステージまではいかなくなりました。

すごいなあ、アロマ。
実はアルガンクリームにもビタミンEが入ってたり、それ単体でも霜焼けに効くようなので、分けて塗ったり個人的に分析してみたところ、ラベンダーが不可欠であることがわかりました。かといってアルガンクリームも大事で、しっかり塗り込むことや、予防の効果も考えると、この組み合わせが私には心地よく、一番好きと結論しました。

言わずもがな、香りも良くて、こんな風に治してる自分が好きになれます。

大晦日に

自分の意思とは裏腹に、毎日何時に終わるかわからない、勤務中はずーっと神経張り詰めっぱなしのお昼も食べたらすぐ戻る、な仕事をしています。
そんなつもりじゃなかったのに…。
田舎でのんびり子育てのつもりが、これがブラック企業かあと観光気分になれるくらいの何もかもがブラックとして完璧な会社で、毎日時間に追わり常に焦って走って間に合わなくて謝りまくる日常を、なんとかこなしてる…つもりが体は正直で禿げました。
保育園の予定お迎え時間を二時間は超えてるし学童のお迎えはもはや行けてません。子供の病院もいけません。

もう解決するための答えはひとつなのですが、何故一歩を踏み出せないのでしょうね。

それは、他に仕事があるのかなという不安と、狭い街だけに辞めても色んな人に会いまくるし、自分がこの街でやっていくためにはここで頑張ったほうがいいんじゃないかという思いと、まあ、あと少しは今まで事務補助で物足りなかったのがここでは最前線で働いてる充実感もないこともないという理由…なのか、それが全てなのか自分でもわかりません。

辞めたら楽になるだろうなあ。
楽になるだろうなあ。

母体ラスト

妊娠、出産すると、それまで使ったことのなかった自分の身体の機能が発揮され、人体の不思議に驚きの連続となります。
自分も子供も、ちゃあんとその時期の理にかなった変化を繰り返し、よくできてるなあと感動することがたくさんありました。

そして、私のそんな感動の連続も、母体としての最終章を迎えました。

次女はもう1歳9ヶ月。
もはや産後ではない…のですが、まだ授乳をしていたのです。
日中一見普通のおばさんに見えるかもしれない私ですが、実は家に帰れば毎日せっせと母乳を生産していました。子供が欲しがれば、ちゃんと与えることのできる人体の神秘中でした。

それも訳あって急遽断乳

2日目まではガチガチに張ってとても痛くて、これどうなるんだろ…と思っていたのが、そのまま耐えていると痛みもなくなりジワジワと張りもおさまってきました。
これも、ちゃんともう母乳はいらないと身体がわかってくれ、生産がストップされたんだなあと、感動です。娘の方も毎晩一、二度は起きて授乳していたのがあげられなくなり、夜中に大泣きして対処が大変だったのですが、段々と眠りが深くなってきました。身体が変化しています。

こうして、私の妊娠出産の、母体としての目覚ましい身体の変化は、終わりを告げようとしています。ほんと、すごく面白くて感動の体験でした。
誰かに、ありがとう、と言いたいけれど神様の名前をしらないし、神様の分も合わせてやっぱり娘にありがとうと心で言います。

帰ってきた父ちゃん

夫の故郷に越してきて3つ目の季節を迎えようとしています。
都会で鍛えられた私の自転車筋肉はほぼ消滅しました。歩行筋肉も、ほぼサヨナラとなりました。
かつては3キロを歩いて通勤していた私ですが、ほんの数百メートル先も車に乗るようになりました。

しかし、楽です!

田舎の子育ては楽です!
急病などの緊急時には困ることもあるでしょうが、日常は楽です!

どこにいくにも、雨の日も風の日も雪の日も、自転車の前後に子供を乗せて傘をセットして、保育園、駅、と過酷なサイクリング。それがまたオフィスカジュアルな服で全てをこなさないといけないのです。都市部では。

今は…、車で快適に送り迎え&通勤です。制服のある会社なら、もう家から制服です。

そして、都市部ほど、目を光らせなくても、隣の近所の大人がみんな我が子を知ってくれています。
ここでは匿名性はゼロに等しく、みんなが自分が誰か、何者か、をいつでも背負って行動しています。

それと、一番私が嬉しく思ってること。
父ちゃんたちは、早くに家に帰ってきてます。
都市部では、もちろん様々な職業の人がいますが、旦那さんの帰りは20時過ぎる、なんて言う人が殆どなのではないでしょうか。うちの場合は21時には帰れたらいい方でした。

子育てがぐんと楽になりました。今まで、魔の夜の時間を全部一人でこなさなければならなかったのが、なんなら私の方が遅くなったりするくらいで、父ちゃん不在の夕飯はゼロになりました。
これは、本当に本当に素晴らしいことで、まさに別世界です。

今も都市部で多くの人の中で気を遣いながら、一人で奮闘しているお母さん達がたっくさんいることを思うと、涙を浮かべてエールを送ります。

喫煙率

書いた記事が全て消えたので、最初には書いていたオブラートは全部取ります。

田舎は喫煙率が高い!!

そして喫煙マナーが悪すぎ!!分煙しろ!

15年くらい遅れてるぞ!
この町にスタバを!そしたら意識は変わるかも。なんて。

もっと長々と丁寧に書いてましたが、簡潔に言うと、上記の通り、以上。ですね。