レシムノに憧れて

雑記以外の何物でもないです。趣味はエコとギリシャです。

何も感じないわけがない

この夏、ある人との出会いがあり、私が長年抱えてきた悩みや辛さをたった2時間その人と話しただけで、手放すことができました。
今思っても不思議です。
よく、いい言葉を見つけたり、それは真理!という考え方を知ったり、実践したりして、ああ私はこれで大丈夫だわーと思っても、長くて一週間。忘れたりもう効き目が切れたりして、元に戻っていました。
だから、今回も、その方とのお話が終わった後の爽快感が半端じゃない!何この身軽さ!!とびっくりしながらも、またすぐに戻るんだろうと思ってました。
もう10ヶ月もたって、戻るどころか、どんどん進化しています。できることがどんどん増えています。

とにかく毎日が落ち込まない。楽しい。心地よい。
人に左右されない。


そんな風に思っていたのに、ここ数日で立て続けに友達とのことで悩んでいました。どうしても友達の言動が許せず、久々に友達と喧嘩をしました。
日が経つにつれ、許せなかった自分が悪かったのだと自分を責める気持ちも浮かんだりしました。

その度、もう大丈夫と思っていたのに、まだ怒ったり自己嫌悪に陥ったりするなんて、私はまだまだなんだ…とがっかりもしました。
けれど、ちょっと待てと気付きました。
私は怒りもせず傷つきもせず悩みもせず反省もしない人間になるつもりでいたのか⁈と。そんな人がいるとでも⁈
よく考えたら当たり前のことでした。

何も感じない人なんているわけありませんでした。

明らかに前と違うのは、そのときに言いたいことを、言えたということ。良い人になろうとしなかったこと。ちゃんと正直な気持ちを伝えられたこと。相手の言い分も冷静に聞けて、気持ちを受け止めることもできたこと。仲直りもできたこと。怒るべきところはやっぱり怒ってよかった、と、立ち直りが早かったこと。
よかったと思えることもたくさんありました。

こうすべきだ、これが正しい正解だ、を手放せた、というのはどんなときにも私をた助けてくれているようです。自分の気持ち、心地良いほうを選ぶ、それだけで、私は何があっても、感情は動いても、それでも大丈夫です。

愛のこもったシェイビイングジェル

2年前。
ふと家を見渡してみると、特に意識したわけではなく、段々と洗剤が姿を消していった我が家。食器洗いはほぼアクリルたわしで洗剤なし。必要なときはフロッシュ。歯磨き粉もハンドソープもシャンプーも石鹸も自然派のもの。
洗濯は酸素系漂白剤とクエン酸で、掃除も家中、重曹クエン酸です。
こう書くと、めんどくさいこだわりの自然派に聞こえますが、単純にわくわくしながらこれ好き!これでいいじゃん!いけるじゃん!と変えていったらいつのまにかそうなっていたのです。

ペットもいて小さい子供もいたので、口に入ったらあぶない!がない、洗剤に関して危険がなくストレスフリーな我が家でした。

しかし!
よくよく見ると、ひとつだけ強烈な匂いを放つ、化学的なものが洗面台に…!

夫のシェイビイングジェルでした。
自分がノータッチな洗剤なので気づきませんでした。

その頃、アロマのワークショップに行き始め、こんな物も自然素材で作れるんだあ!と更に自分の好きな世界を広げていました。
子供も使えるハンドクリームやマッサージオイルなどなど…アロマオイルを使った自然素材のもの、まさに自分の好きなものにドンピシャで、とても楽しいクラフトタイムでした。

またその素敵なアロマの先生との出会いはとても大きく、そのとき夫に対して不満しか持っていなかったのが、先生と話す中で夫の今の状態を冷静に知ることができ、まずは夫を癒したい、大事にしたいと思うようになりました。それが、自分を大事にすることになるということもわかりました。

さて次回は何を作りたい?リクエスト受け付けますよ、と言ってくれた先生。

そのとき、シェイビイングジェルに気づいたのです。おそるおそるリクエストしてみると、OK!と、それまでメニューになかったのに、新たに調べて試作してレシピを作ってくれました。

そして先生に教わって初めて作ってからもう2年。もう先生との定期的なワークショップはなくなってしまったのですが、ずっと作り続けています。
夫が気に入って、前はストレスで吹き出物がでやすかったのに出なくなった、剃り心地も気持ちいい!と、なくなったら作って、とリクエストしてくれます。
そのたび、とてもとても嬉しい気持ちになります。
その後妊娠したときも、一度作れず、仕方なく夫が前に使っていた市販のジェルを買って使っていたら…つわりにはその匂いはものすごい破壊力でした。すぐに作りました。
アロマシェイビイングジェルは、使った後の洗面台の香りも爽やかでナイスです。

子供も2人になり、私もどんどんおばちゃんの要素が増え、夫との関係も以前の関係とは違うものになっていきつつありますが、シェイビイングジェルには間違いなく、私から夫への愛がこもっています。

とても簡単にできるし作るのも10分くらい、で、ジェルになっていくさまが楽しいので、誰かにすすめたいけど、そういえば進めたことがなかったので、書いてみました。

忘れたふりのザゴリア

ザゴリアの続き、すっかり忘れていました。というのは少し嘘で、見て見ぬ振り、忘れたふりしていました。
かえる、本当に本当に怖かったです。自分の人生、ここが一番の正念場だ、と自覚していたのをはっきり覚えています。
そろーりそろーり、かえるが何も動きませんようにと心の底から祈りながらすれすれの横を通り抜けました。
幸いかえるは微動だにせず、私も人生最大のピンチを乗り切ることができましたが、もしあそこで、かえるががあとか声を出したり、ただ一歩前足を少し踏み出しただけで、もしかしたら私は崖から人知れず転落していたかもしれません。

そのピンチを脱しても、いけどもいけども終わらないハイキングコース。アップダウンの激しい自然そのものの道。
ゴールして山を抜けカフェというものを見つけた時は心底、本当にホッとしました。あの時のコーラの美味しかったこと。スタンドで立ち飲みだったけど、疲れは吹っ飛びました。

しかしここはどこ?バス停からははるか離れて山を越えてしまいました。
いや、ここはお金で解決しよう。手持ちで足りるかわからないけど、タクシー呼んでもらってバス停に戻ればいいや。
しかしタクシー、その村にはそんなものすら存在していませんでした。お金なんて何の意味もありませんでした。
またいつか、続く。
懐かしいなあ。

ゼラニウム

今日、ある機会に飛び込んで、自分がこうありたい、という絵を自由に描く時間を与えられました。
何故か、最初に描いたのは、自分が地面に立っていて、その地面に自生するたくさんのゼラニウム
緑の葉っぱの、内側の太い縁取りのような模様も楽しく丁寧に描いていました。花は色々あれど、私の欲しいのは真っ赤なやつ。それがワサワサーッとたくさん自生してて欲しい。
それが、私の一番の願いなの⁉︎と自分でも意外というか、へえーと思いながら、いくらでもこれ描けるわーゼラニウム。とゼラニウム描いていました。
なんでなんでしょうね。
アロマとしてのゼラニウムも、絶大な信頼を置いているし、ローズに似ている香りもまじめな感じがして大好きです。
そして植物そのものの見た目も大好きです。繊細な雰囲気も持っていながらワイルドで。それでいて、あの赤にははっとさせられます。
好きの理由の多くはよくあるようにギリシャの街角には元気すぎる真っ赤なゼラニウムが欠かせない、ギリシャのポストカードには定番の花だから、好きになったのです。
でもそれはもはやきっかけで、心の奥底であのゼラニウムの存在がどんどん大きくなって、本当に理屈抜きでなくてはならない、大好きな植物になっています。
ゼラニウムという名前もなんとなくミステリアスで大好きです。

これが、プランターでなく、自生してくれたら本当に嬉しです。

たまりません

基本気のいい人だなと思います。
ニコニコ。
西田敏行みたいな、唇巻き込んだパンパンのたまらない笑顔で楽しそうに過ごしています。
五歳のお姉さんも、たまにグジグジしているときもありますが、基本楽しそうです。
人間て基本明るいんですね!本も読まないし携帯も持ってないけど、毎日とっても忙しくて楽しそう。
素敵だなあ。
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ミルクとオムツ高い

本来、赤ちゃんを育てるのは特に何も買わなくていいようです。二人目育児してみて実感しました。
雑誌や広告などで、必要なものの情報が当たり前のように入ってくるので、赤ちゃん産まれるならこれとこれを買いに行って…とリスト化しますが、実は全部いらないかも。
裸ん坊で産まれてくる赤ちゃん。シンプルです。
寒くないようにくるむ布があって、おっぱいをあげて、おしっことうんちを処理できる布切れがあればいい。
動物は何にも育児スタートグッズがなくても育ててます。おかあさんが自分の全身を使って。
ニンゲンが買うのは、ほとんどが実は必需品ではなく便利グッズなのかもしれません。
その分、おかあさんと赤ちゃんに必要以上に距離ができてしまってるのかもしれません。
体温計。手で触れば高熱がどうかはわかります。数字に左右されず、熱いようだけど、まあ元気かな、と全体を見て判断できます。
数字で判断になると、じっくり全体を見ることを手放してしまい、何度以上は病院へ、の流れになってしまいます。
でも、赤ちゃんのことを一番知ってるのは自分。病院の先生にバトンタッチするのは、もっとじっくり親が見てからでいいのかもしれません。

体温計については言いやすいですが、口にしにくいのは、ミルクの話。

ミルク。母乳が出ない悩みは深く、立ち入れないことですが、出ない、足りない、と指導されるままミルクをあげることで、まだ母乳を出せるチャンスがあるのに逃してしまっているようです。出ないなら即ミルクでなく、出ないなら本気で母乳を出すようにする、という当たり前の文化がなくなってしまったそうです。
外国ではミルクのコマーシャルは禁止だそうです。母乳でなくミルクに移行した裕福でないお母さんが、ミルクを買うお金がなく、赤ちゃんにミルクが与えられなかったり、薄めて飲ませたりすることで起こった、赤ちゃんの栄養失調や死亡率の問題は深刻なんだそうです。最初から母乳だけで通していれば起こらない問題です。

そしてオムツ。
紙おむつは捨てる物。捨てる物は当たり前ですが大事にしない。ウンチおむつなんて赤ちゃんから外した途端、汚いゴミでしかなくなります。
だからガッチリ密閉するような電動のゴミ箱が発売されたり、お母さんと赤ちゃんのウンチは距離が離れるばかり。
でも不思議と、布おむつにしたウンチはいつまでも赤ちゃんから出たウンチで、そんなに汚いとか感じないのです。洗うのも、意識しなくても赤ちゃんの排泄のこと考えながら洗うので、その時間もかげがえのない時間と感じます。
動物なんてお母さんが赤ちゃんのおしりをぺろぺろ掃除してあげてるので、本来はそんなものなのかもしれません。もちろんできませんが!

子育てを楽にしようと、たくさんの優しさで開発されたグッズ、私もたくさんたくさん恩恵に預かっていますが、基本家では使っていないので、たまに保育園用に色々と買うと…高いなΣ(゚д゚lll)と思い、ここまで書きました。

あけましておめでとうございます

久しぶりの更新です。
といっても、本当に細々と、ちんまりと書き綴るブログなので、誰かが更新を待ってるということもないのですが。
かといって、自分の覚書のためだけに書いているというのともまた違い、やっぱり発表してるという心持ちでは書いています。

新年ということで、好きなものに対する思いを書いてみようと思います。

ドキュメンタリー作家の森達也さん。

私はこの方との出会いで、人生が少し、一見少しですが、実は生き方が大きく変わった気がします。
もちろん実際に出会ったわけではなく、この方のドキュメンタリーをたまたまテレビで見て、それから著作を読んで、一作ごとに何度も何度も既成概念をひっくり返されました。既成概念という四文字熟語を使うのもおこがましいくらい、意識もせずちゃんと考えてもせずカテゴライズされてたものが、なんてたくさんあったのだろうと。
でも森さんはそれについても理由をとことん明らかにしていきます。
世間がこういう価値観に流れていったのは、まず一斉にこの記事が出て、コラムもこういったメンバーを選んで載せた、とか、主観をなるべく抑えて事実を並べたとしても、並べた順番でやはり印象が変わってしまう。など、偏った価値観に対してすら、フェアでフラットな態度は揺るぎません。だから、読んでいても説き伏せられてるようで居心地が悪くなるようなことも、価値観を押し付けられてるような窮屈なこともなく、自分の頭で得心していく、という心地よさ。

そして何より、森さんがアピールしたいわけではなさそうな優しさがどうしてと滲み出ています。

自分が優しくしたい人には、優しくしたい。そう思いました。

例えば、昔こんなことがありました。
いつも明るくて面白くてムードメーカーな男性。その人を含め、当時は彼氏だった夫と私と、もう一人四人で会う約束がありました。
当日になって夫が風邪をひいて、とキャンセルしました。
私はその当時夫がすぐに身体の不調を訴えるのを正直めんどくさく思っていました。自己管理ができてないし、少々しんどくても私なら約束は守るよ、とそのときも苦々しい思いでした。
そして、3人であった時に、2人に夫が風邪で来られないことを伝えました。私は、自分の彼ということで身内扱いをして、いやほんと体弱いですよね、もーすいませんまったくほんとに…みたいな言い方をしました。そのムードメーカーの彼がそうなん??弱いなー、などと笑ってくれて彼に対してイライラしている自分の溜飲が下がる、というつもりでいたのだと思います。もう一人の女友達も、私に賛同するような返しをしてくれました。

でもそのムードメーカーの彼は、本当に心配そうな顔で、無理しないほうがいい、うん。と言いました。

その彼の発言こそが正しくて、自分の冷たさを大いに反省した、という話ではありません。何が正しいということはないです。その時の私の気持ちも、もちろん反省などありますが、自分の気持ちを否定してしまうことはないと思います。

そこではなく、その人が、私が水をかけてて、会話の流れも方向性もつけてたにも関わらず、その流れに反するような自分が思ってる優しい気持ちを、そのまま言葉にしたことに、ひれ伏したい気持ちになったのです。
別に冷たい私を非難する目的も持たず。優しい自分を現したいという目的でもなく。

優しい気持ちをすっと出せる人。を私は尊敬します。

さらにいえば、もともとそういう優しい気持ちを持てる人にならないと出すもんも出ないとは思うのですが。そこはまた別の話ですね。

周りの価値観や自分の中の邪魔している既成概念、それは本当に価値のあるものなのか?幻想ではないのか?
何かが邪魔して自分の気持ちの通りにできないときは、森さんのようにとことんその何かと対峙して溶かしていくことをしてみようと思います。

人には色んな側面があって、真実とか、白黒つけられることなんて本当はないので、わからないことばかりあってとても悩むし迷います。
目の前に差し出された価値観を受け入れれば、もう考えなくていいから楽ですが、たまには立ち止まって、本当に自分で考えるようにしたいなと思います。