レシムノに憧れて

雑記以外の何物でもないです。趣味はエコとギリシャです。

よく普通に生きてるな

また行き詰まってました。

切り開いたと思ったり、十分幸せだと思ったり、山あり谷ありで、まあ正直に言いますと、やっぱここやだって訳です。何せ悩みの多い人生なのですが、こんな私でもなんとかやっていける距離とか環境があればなんとかなるのですが、私のようなヘタレはここでやっていく逞しさやスマートさがないというわけです。

だからと言って簡単にまた都市部に出て行くことも出来なくて、またここで不器用ながらも頑張っている子供達も目の前にいる訳で、なんとか毎日をただ生きていくだけの毎日でも、踏ん張ってここにいるしかないのです。

いやほんとに?出て行くことは不可能なの?

不可能ではないけれど、困窮が、貧困が待っています。

今は自分より歳上の中古で販売不動産にされた価格重視リフォームの安普請の中途半端な家だとしても自分達の家がある。この車にこの年数?という長いローンを組んだ車もある。毎日心が不安定になって行きたくないと毎朝葛藤するけど、正社員になれた職場がある。

やっと手に入った普通。

子供の頃から貧困家庭で不潔で両親不仲なのに子沢山。自分は人と違うという劣等感は当たり前で、今だって染み付いています。

大学入学を機に家を出たけれど、仕送りなし。奨学金とアルバイトで家賃から全てを払うから、余裕なんて一切ない。学費を払ってくれるだけで、ありがたいと思ってました。

そんな大学生活も、2年になって学生課から呼び出されて、一年の後期から再三督促をしても学費が支払われてないと知らされました。このままだと退学でもなく、合格して入学した事実さえ消される、除籍になると。親は私にはなにも言ってきませんでした。結局黙って除籍にさせたのです。

去年の秋からタダ飯ならぬタダ受講してたとは。世の中に顔向けができません。授業に出席していた私は何だったんでしょうね。


その後は2年程、家もないフリーターです。

姉の家に転がり込んだり友人の家に滞在したり、衣食住全てに困窮していました。それでも大学時代一年と少しの奨学金の返済はすぐに始まり、その督促にも怯えながら、月給までもたないので日払いのバイトで生きていました。ティッシュを配ったり、ひたすらシールを貼ったり、物流倉庫の謎の作業など。日常的に、焼きそばパン一つ買えない日もありました。

心が弱り、人と会うのが怖くなりました。

長期の固いバイトが決まり、姉が給料が入るまで助けてくれるのに、1日で行けなくなり連絡もせず、電話に怯えることも何度も何度もありました。

お金に困っているから、ドヤ街みたいなところのパチンコにも一人で平気で行きました。

自分ではいい加減でダメな奴だと思っていましたが、果たして自分だけが悪かったのでしょうか。

と最近思うようになりました。

とうとう姉が就職で引っ越すことになり、バイトで知り合った友人が教えてくれた公団住宅に申し込むと当選。契約には就職が必須だったので、その為に就職活動をし、なんとか契約社員になりました。そこからはまあ転職を何度かするものの、真面目に月給で暮らす生活が始まりました。

そこからも色々、本当に色々はありましたが、安月給ながらも衣食住に困らなくなったのはとても嬉しかった。


まあ、その頃のことを思い出すと、今なんて信じられないくらい幸せな訳です。

私がこうして普通の生活をまがりなりにも送れているまでには、色んな人との出会いが繋がっているのを、今日改めて思い出しました。


それは、今日ちょっと時間ができて本当に久々にジョンレノンを車のオーディオに落としながら聴いたら、あのドン底の時によくジョンレノンを聴いていたことすら忘れていましたが、あの時の感覚がぶわっと蘇ったのです。

そしてスターティングオーバー。この曲が流れたら、そうだな、またスターティングオーバー、いいんじゃない?と前向きな心になれました。

忘れてたけど、いやあの時を思ったら、ここまでよく頑張ったよ。と、まあ愚痴も辛い気持ちもわかるけど、まあここの土地がどうとかはおいといて、それどうでもいいとして、そんなことより、ひとまず自分褒めていいんじゃない?と。


あの頃の毎日どんと抱えてた絶望感、死ねるならいつでも死にたいなーとカーテン見ながら毎夜思ってたこと思い出すと、今よく普通に生きてるな、すごいな!と思います。

いや、姉はじめ、ほんとありがとう皆さん。

もちろん旦那さんも。